みえ教育ネットワーク

「 みえ 教育 ネットワーク 」は 三重県に勤務する、教育に関わる 全ての 職種 (正規・非正規 とも)、誰でも一人から入ることができる労働組合です。無料ブログのため、CMが入りますが、ご了承ください! ホームページは https://menwtuhp.jimdofree.com/ にあります。                 

磯津環境学校HP「磯津通信 No.27」より

 今から40年前の1972年7月24日、津地裁四日市支部は原告の訴えを全面的に認める「四日市公害訴訟判決」を出しました。四日市市は今年はじめて市主催の記念式典を開きます(7月29日、本町プラザ)。議論を呼んでいる「公害資料館」の設置も9月には基本計画が出る模様です。この問題を一貫して追究してきた磯津環境学校のHPに以下の中日新聞の記事が載っていました。紹介します。


                       写真は磯津公会所
<写真説明>
「・・・さて博物館で展示を見、語り部の話を聞いたらそれで四日市公害を学んだことになるでしょうか。実際のフィールドは、塩浜・磯津です。ここに立ち、この臭いをかいで、工場群を見、最大の公害被害地磯津に足を踏み入れないで四日市公害の何を感じたと言えるでしょう。今は磯津公会所に、たとえ何も「もの」が用意されていないとしても、そこには豊かに過去と今、そして未来を語る魂と真実のスポットがあります。それが「磯津公害B資料館」の真髄です。それに向けての学びと継承の仕事を私たちは着々と進めたいと思います。」(磯津環境学校HP「磯津通信 No.27」より)
磯津環境学校HPは「いそかん」で検索
またはhttp://isokan.web.fc2.com/index.html

中日新聞・三重版 2012年6月9日】 
  公害資料館〜苦い道歩まぬ教訓に〜
 かつての公害の街・四日市市で、公害資料館設置に向けた議論が続く。当時の高度成長、国策という追い風を受けて、人命や環境間題から目を背けてきた反省は終わったのだろうか。二度と苦い道を歩まない、教訓となる資料館こそが必要だ。
国内の四大公害で、四日市公害を除いて、イタイタイ病、水俣病新潟水俣病の地元には行政が設置した公害資料館がある。四日市市環境学習センター内に公害資料室はあるが、本格的な資料館設置に、やっと市も重い腰をあげたといえる。
 「四日市は公害を克服した」という声を聞く。全国に悪名をとどろかせた汚名を払拭したい気持ちは分かる。しかし、現実は違う。
 今も、当時の苦しみにさいなまれながら後遺症と闘う認定患者は四月末現在四百三十一人いる。 一九八八(昭和六十三)年に市が公害指定地域から解除され、それ以後に発症しても認定は受けられない。泣き寝入りの患者もいる。
悲惨な体験を語り継ぐ人も年老いている。四日市公害訴訟の唯一の元原告患者となった野田之一さんは八十歳。訴訟の患者を支え続け、記録活動に取り組む沢井余志郎さんも八十三歳だ。認定患者も同様だ。月日とともに歴史の証言者が亡くなり、公害の風化の加速という現実も迫っている。
 公害資料館は、公害被害者や企業、環境団体の代表者らによる「公害に関する資料館(仮称)あり方検討会」から意見を聞き、市が取りまとめるという。設置場所、建物ありきで、展示内容は二の次だ。何を紹介するかを決めるのが先決だろう。全市民を巻き込んだ知恵と工夫が必要だ。四日市公害を知らない世代も学べる絶好の好機と捉えるべきだ。
四日市に青空を取り戻し、市民の命を守った画期的な判決。四田市ぜんそくの元凶だった亜硫酸ガスをまき散らした四日市石油化学コンビナート企業と、見て見ぬふりをした行政も断罪した。来月二十四目に四十年の節目を迎える。
 今も繰り返され続ける発展と環境破壊。人命まで奪った無秩序な「発展」の代償は、あまりにも大きい。資料館設置を機に、あらためて判決の意義を問い直す機会と考える。
四日市支局長・中川雅嗣)